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埼玉の建築スケッチMAP 青山恭之のブログ
エッセイessay
浦和の街と「うらわ建築塾」①

― 街歩き、「アートマップ」作成から次なる展開へ―

 私は、さいたま市浦和区で「アトリエ・リング 一級建築士事務所」という設計事務所を妻の永田博子と営んでいる。住宅建築の設計が中心だが、浦和あるいは埼玉県という地域と関わった活動にも参加しており、それを3回に分けて、紹介してみたい。

 全国の県庁所在地のなかで、城下町等その地方の政治経済の中心地ではなかった街に県庁がおかれているのは、浦和だけではないか。江戸時代、中山道の宿場町として整備されるが、規模としては小さいほうだった。それが明治になって、県庁が置かれることになって、師範学校などの教育機関や行政機関が集まり、県都としての体裁が整えられていく。
 その上で大きな役割を果たしたのが、大正末から昭和初期にかけて、県庁の背後に広がる田園地帯を、新国道の敷設と合わせて、グリッド状の街区に整備した鹿島台の開発だ。旧中山道沿いで手狭になった施設が新国道沿いに敷地を得、関東大震災で被災した人々が移り住んできた。その中に、画家や文化人が多く含まれていたことから「鎌倉文士に浦和絵描き」という言葉が生まれ、名門高校の存在などもあって、文教・文化の街浦和というイメージが定着していった。
 しかし、産業や経済といった面で浦和は地味な存在で、市制がしかれたのも、昭和9年と県内で4番目と遅れた。また、交通の要衝は大宮であり、浦和は特急の止まらない県庁所在地という時代が永く続いたのだ。
 しかし、そんなのんびりした浦和だからこそ、残されてきたものがある。大宮のように鉄道や商業資本によって力強く成長していった街とちがい、ひっそりと、江戸時代まで遡れるような道筋が残っていたりする。明治時代の町屋も散見できる。現在建築の名作もある。

 そんな浦和で新しい運動に出会った。詩人で建築家の立原道造が、鹿島台に隣接する別所沼のほとりに構想しながら、かれが夭逝したため実現しなかった「ヒアシンスハウス」というちいさな別荘を、70年の年を超えて、建ててしまおうというのだ。地元の文化人・建築家たちがお金を集め、2004年に、立原の夢が実現した。そして、ヒアシンスハウスを拠点に、様々な文化・芸術活動を持続していこうという。そんな、ヒアシンスハウスの会の方々との交流のなかから、「うらわ建築塾」という、建築家や都市計画家7人をメンバーとした活動が2007年にスタートした。

 ホームページを作って、浦和の街に関する情報をまとめて紹介することから始めた。そして、浦和の街をより深く知ろうと、浦和の歴史や建築に詳しい4人の先生方をお招きし、連続公開講座「浦和のまちの記憶を辿る」を行った。また、中山道沿いの町屋を一軒測量し、報告書を作成した。さらに、地図を片手に歩き回り、気になる建築を写真に撮った。旧浦和市内でチェックした建物は500に近づきつつあり、ホームページ上にその半数ほどをアップしている。すでに無くなった建築も多くなってきた。埼玉県立近代美術館との関係で、街歩きを行い、「うらわアートマップ」なる地図も作った。高崎や新潟のまちづくりの視察や、浦和で活動している他のまちづくり関係の団体、神楽坂建築塾などとの交流といった「他流試合」も試みた。
 そんな「うらわ建築塾」の活動だが、全員が集まって活動するということから、メンバーのうちの複数が、別の活動に参加するようなかたちにシフトしてきている。次回は、その展開を紹介したい。