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埼玉の建築スケッチMAP 青山恭之のブログ
コラムcolumn
薩長、夏の旅

2018年8月
01
 この夏のお盆に山口・鹿児島を訪ねた事を、「薩長」の旅としたのは、今年が明治維新150年だということにあやかってのことです。行き帰りに使った新幹線でも、JR西日本が山口県・鹿児島県と共同でキャンペーンをやっていることを知りました。
 2014年の近江八幡あたりから意識し始めた「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建地区)ですが、2017年の栃木市嘉右衛門町・八女、今年に入ってからの足助・有松と、何かの旅にかこつけては訪問を重ねてきました。この夏は、鹿児島へのお盆の旅行の寄り道として、山口県柳井を選びました。夏休みの時期だけ、「金魚ちょうちん」が白壁の町並みを彩るというのです。
 山口県は、実は下関しか歩いていません。萩も津和野も通過すらしていないのです。今回、山口市の瑠璃光寺の塔も見てみたいと旅程をイメージしていたのですが、日程は8月11日から15日と、世間のお盆休みとピッタリに限られることになり、柳井一泊を前提に考えると、瑠璃光寺はあきらめるしかありませんでした。だとすれば、柳井に着く前に岩国で錦帯橋を見ることはできないかと思いきや、あの西日本豪雨で山陽本線の柳井から5駅先の下松までが通行休なって、柳井から広島に同じ線路を戻らざるを得ないことに。ですので、山口県の旅といいながら、ピンポイント、柳井だけになってしまったのです。
 あわただしい旅でしたが、色々と考えさせられたことを、書き留めておこうと思います。やや長文ですが、おつきあいいただければ幸いです。


 
1 車窓から考える
 11日土曜日「山の日」、朝の東京駅は、大変な人出でした。例年この時期は始発かそれに近い新幹線を選ぶのですが、今年は9時台発で、帰省ラッシュのゴールデンタイムだったのです。ただ、幸か不幸かグリーン車しか取れなかったために、広島まではゆったり、ひさしぶりのA席で進行方向左、海側の景観を見て過ごすことができました。

 「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。」というのは、民俗学者でムサ美の先生だった宮本常一が、十五歳で故郷の周防大島を離れて大阪へと出ていく時、父から授かった十カ条うちの最初にかかげられていた言葉です。続いて、「田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。*」と、駅に着いたら、置いてある荷物を観察せよ、そこから土地の暮らしが想像できるとも言っています。僕も子供のころから電車の窓から外を見るのは好きでしたが、車窓から考えるというのは宮本先生の影響があると思っています。そして、車の免許を持たずにここまできてしまったのは、おそらくこのへんのことが関係しているのでしょう。(*;NHK人間講座、佐野真一「宮本常一が見た日本」)

02
 見て考えるのには新幹線はスピードが速く、目まぐるしいのですが、景観の変化を感じやすいものです。その変化の一つが、関ケ原を過ぎたとたんに、集落の姿が美しくなること。浦和で電車に乗った時から始まる、混沌とした街の連なりは東海地方を通じて続き、それが上の写真のような、整った、落ち着いた家並に変わるのです。関西の成熟した住文化が生き続けているエリアに入ったと感じる瞬間です。この辺りの事は、どこかできちんと考察しておかなければと思っています。

 

03

 これは、新大阪を出て間もなく、阪急宝塚線を過ぎてすぐに左に見える住宅地です。今回初めて気づきました。ほぼ同規模の三階建ての住宅が数十軒、高密度で立ち並んでいます。ストリートビューで見てみると、一階は車庫と玄関が道に面して、二階・三階はバルコニーが向かい合って他の三面は基本的に大きな開口はないという形式です。造形的に「整って」いるかもしれませんが、住環境として良好とはいえません。高密度で住まわざるを得ない時に、高層化か、それともこのような戸建ての集合か、極端な二極化に陥ってしまっている・・・。中・低層での集合住宅のあり方を模索していた建築家の努力というのは、経済原理の風に吹き消されてしまったのでしょうか。

 

2 柳井と金魚

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 新神戸の前からトンネルが多くなり、車窓からの思索も途切れ途切れになってしまって、東海道と山陽の新幹線建設の時代の差を感じます。下車した広島駅は、やはり大勢の人々であふれかえっていました。乗り継いだ山陽本線も、ラッシュといえるような混雑。ただ、宮島口で外国人観光客達がごそっと下車して、やっと外が見えるようになりました。乗り換えの岩国駅は、列車とホームの段差が大きくて駅員さんの力をお借りし、その先は瀬戸内海の美しい風景が広がります。先ほどの宮本常一の故郷周防大島が大きく左に見え、こんなに大きな島だったっけと記憶を探るも、どうも初めてそうとわかって見ているようです。おそらく、このあたりの山陽本線を通った経験は寝台ばかりで、ほとんど夜だったからかと思いました。着いた柳井駅はエレベーターが無くて、跨線橋の上り下りに時間がかかってしまい、改札を出たところで大きな金魚提灯(前の写真)が出迎えてくれました。ハートの目に、旅路の疲れが癒されました。

 

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 ホテルに荷を下ろして身軽になり、最初に尋ねたのがこの煉瓦の遺構です。柳井駅到着直前に右車窓に見えたので、気になったのです。駐車場になっている広い空地に、ぽつんと建っていました。中は空洞ですが煉瓦はしっかりと積まれていて、要所に装飾もあり、独立したオブジェではなくある用途の工場か何かの一部と見えました。駅の近くだったので鉄道の施設かとも想像しましたが、説明も、注意書きも無く、そばに人もいなくて聞くこともできませんでした。後日ネットで調べると、「新納鉄工溶鉱炉」という名で、山口県の近代化遺産に登録されているもののようでした。

 

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 今回のメインとなる重伝建地区に向かう途中、ガレージのなかに、金魚ねぶたが整列しているのを見つけました。あさって13日が「金魚ちょうちん祭り」、あす12日がその前夜祭で、スタンバイしていたのです。実は柳井の金魚ちょうちんのルーツは青森の金魚灯籠(金魚ねぶた)で、江戸末期に北前船のつながりで柳井にもたらされ、何人かのキーパーソンの力で時代を超えて受け継がれ、柳井のシンボルに育ってきたというのです。青森と柳井の金魚つながりについては、withnewsにわかりやすい記事がありました。こちらです。

 

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 だんだん暗くなってきて、金魚ちょうちんに明かりが灯りはじめました。これは駅前通りが舟運で栄えた柳井川を渡る「本橋」から西を見ている写真です。川の右(北)一帯が古市金屋地区という白壁の町並みが残るエリアです。この川を利用して、北前船の寄港地である柳井港との間で物資が行き来し、この街が岩国藩のお納戸として大いに栄えたので、立派な町並みが形成されたそうです。岸辺に荷物を上げ下ろすための石の階段「雁木」が今に残されています。現在は、川に大きな鯉が悠々と泳ぎ、カニもたくさんいてメインの通りまで歩いてくるので、「カニに注意」の看板がある程のどかで、かつての喧騒はうそのようです。
 そして、すっかり日が暮れた頃に撮ったのが、トップの写真です。

 

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 一夜明けて、ホテルの部屋から瀬戸内海が見えたので、サッとスケッチしました。正面には、中国電力の柳井発電所(天然ガス)がドカンとあるのですが、その右に、距離にして3キロ程度先でしょうか、海が見え、その先にいくつかの島影が重なり合うように霞んでいました。柳井は、瀬戸内海に半島のように突き出した先端にあり、かつ、周防大島はじめ島々に守られるような立地で、北前船の寄港地としての地の利を得ていたことがわかります。
 蒸気機関車時代にひかれた山陽本線は、柳井などの港町をひとつずつ拾いながら、半島の縁を大回りしていますが、後の新幹線も高速道路も、半島の付け根の山地にトンネルを掘ってショートカットしてしまいます。同じような例が、重伝建地区では広島県の竹原です。新幹線が内陸を通ってしまったために、ひっそりと残ってきたといえるかもしれません。

 

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 さて、今日は、昨日着いたのが夕方で閉まってしまっていたところをいくつか見学することに。この写真は、東西に延びる町並みと、同じく東西に流れる川に対して、南北に繋ぐいくつかの小路のひとつです。石造りのしっかりした排水路が整っていて、都市のインフラがきちんとしているのがわかります。

 

10
 ここは「白壁の町並み」と呼ばれていますが、もう少し詳しく言うと、漆喰で白く塗られているのは壁がちな二階の壁面(二階の開口部は主に鉄格子の入った小窓が二つで、その分壁の面積が大きい)と軒裏で、一階は木の格子や建具で黒の連続ということになります。上が白、下が黒、その間のグレーの瓦というモノトーンの構成のなかで、黒が背景となる軒下に、赤白の金魚が風になびいている。見事な演出と言わざるをえません。そして、この金魚の造形が、日本の郷土玩具一般の素朴さを持ちながら、どこかデザインとしてあか抜けているのは、長州のある種のハイカラさと関係があるのではないかと考えたくなります。
 屋根の構成は、平入・切妻・入母屋が混在しています。かたちは違っても、防火意識の高さから、二階や軒裏部分に木部を露出させない仕上げで統一されてきました。また、洋風な意匠を持つ建物も何軒かあり、さらに写真に見えるようなグリーンも顔をのぞかせて、豊かな町並みをつくっています。

 

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 これは、重要文化財国森家住宅の土間から通りを見たスケッチです。道との間には深い軒、格子戸、ぶちょうと呼ばれる開口部(上の一枚は内側に跳ね上げ、下の二枚は取り外して、三段階に開口面積を調節)、暖簾、犬矢来、そして金魚ちょうちんと、様々な仕掛けがさりげなく収まっています。このあたりの細やかなしつらえを目にすると、現代の住宅が貧しく見えるのは、街路との関係をおろそかにしているためだと思わざるをえません。
 土間に、金魚ちょうちんを折り紙で作ったのが柳の枝に飾られていて、スケッチの左下に顔をのぞかせています。


 柳井では、最後に甘露醤油の資料館を見学しました。立派な和小屋の醤油蔵の脇で冷たい湧水を頂くことができました。町並みから北へ土地が高くなったところに位置していて、背後の山から地下水が流れていることが理解できました。急いで駅にもどり、西に続く線路が災害にまみれてしまったことに思いをはせ、東へ、また広島まで引き返して、鹿児島中央駅行きの新幹線に乗りました。

 

3 変わりゆく鹿児島

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 12日夜に鹿児島に着き、13日は親戚の家などを回った後、この秋でサヨナラとなる鹿児島駅を訪ねました。今やこちらが鹿児島の玄関口になっている鹿児島中央駅から普通列車で、ホームに降り立ちました。跨線橋の階段を上り、写したのが上の写真。噴煙を上げる桜島が、目の前に見えていました。鹿児島中央駅から桜島が見えなくなって久しいところ、この眺めは貴重です。建築のお知らせ看板によると、今回建て替えになるのは駅舎の本屋と自由通路部分となっているので、この跨線橋は変わらないのかもしれません。(自由通路ということは、線路によって分断されている海側と山側がそれによって自由に行き来できるようになるということだと思います。いわゆる橋上駅となるということでしょうか。そのあたりの設計がどうなるか楽しみです。)
 鹿児島本線が海岸まわりで西鹿児島駅(もとは武駅、現在の鹿児島中央駅)にとりつく以前は、この眺めの先、今の肥薩線経由で北へ、博多へ・(柳井を通って!)大阪へ・東京へと旅立っていたのです。

 

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 改札までの通路部分に、鹿児島駅の歴史が展示されていました。これが一代目の駅舎です。明治34年、鹿児島での鉄道の歴史の幕あけに、多くの人が集まっています。先ほどの写真の桜島と比較してみると、線路に平行に駅舎が配置されて、北西側(国道10号線側)に正面を向けていたのがわかります。

 

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 これが大正2年の二代目駅舎。肥薩線(と今は呼ばれている)経由で鹿児島駅が全国の鉄道網と繋がったのが明治42年なので、その4年後、その喜びの熱気のなかで建てられたようなデザインです。中央の改札上部が吹抜けになっているのでしょうか。正面に高々と掲げられたパラディアンモチーフのハイサイドライトは、裏側にも対称におかれていたのかも。翌年に市電がこの駅前まで開通しているので、この正面は、現在と同じ南西向きと考えられます。写真左手に庇が伸びているのも、それを裏付けるでしょう。この駅舎は、昭和20年7月の鹿児島大空襲により焼失してしまいました。

 

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 そして昭和51年から現役の、四代目駅舎です。鹿児島に鉄道の曙を示したこの駅ですが、代が変わるごとに時代の流れを映し出してきたともいえます。鹿児島中央駅が大規模な複合施設の一部になってしまって、駅舎としての姿が見えなくなってしまっているのに対し、正面性を持ち、駅舎らしさをたたえているといってもいいでしょう。さて来年の秋に、五代目はどんな表情で立ち現れてくれるのでしょうか。

 

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 もう一つ、変わりゆく鹿児島の話題です。一番街と呼ばれている、アーケード街です。かつて、新幹線が来る前は、鉄路でも空路~バスを使っても、西鹿児島駅前に降り立ってまず歩いて通るのがこの商店街でした。土産物屋さんからスーパーまで、様々な店が軒を連ねて、桜島の灰が降っても屋根があるので快適に歩くことが出来ました。ただ、その先の踏切が、けっこう開かずの踏切だったのが難点ではありました。当時は列車の本数も多く、大規模な機関区がその先に控えているために右から左からと、ずいぶん待たされました。
 以前の駅(西鹿児島駅)は正面が桜島のある東に向かって開き、地上レベルに改札があって、そのまま市電やバスにアクセスできていました。地下道を通って西口もありましたが、そちらはあくまでも裏口という体裁でした。ところが新幹線が来て駅の構造が一変します。新幹線のホームから下りたレベル、地上の在来線からは上がったレベルに改札が移り(橋上駅)、東西がそのレベルで(地下レベルでも)自由通路として繋がったのです。駅は大型商業施設と一体化されて、建物内で移動できる距離と自由度が圧倒的に拡大したので、人々の動線が変わって例の踏切を使わなくなり、一番街を通るということが皆無になっていきました。
 そんな一番街はいろいろと生き残りの策を繰り出しましたが、地方の商店街一般の問題として、シャッター街になる傾向からは抜け出せないでいました。それが今年、大規模な開発工事に着手したのです。全長280メートルに及ぶアーケード街の五分の一程度の面積、駅前広場に面する一画が工事中。上の写真は、駅に近づく方向で見ていますが、正面が行き止まりになっています。ここの変化も楽しみです。

 

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 最後に、変わらない鹿児島のスケッチを紹介して、筆をおきましょう。今回宿泊した東急REIホテルの部屋から見下ろした高見橋です。中央やや上部に、大久保利通の銅像が見えています。下を流れるのが甲突川で、左端・上流側は西田橋。背後の城山の上には、城山観光ホテル、いやここのところで名称が城山ホテル鹿児島に変わりましたが・・・。この風景はそう変わらないと思います。

 大久保で思い出しました。明治維新150年の薩長の旅らしく、NHKの「西郷どん大河ドラマ館」を訪問したことも記しておきましょう。かつての市立病院跡地が更地になって、その跡地に建っている施設です。展示は、篤姫の時の方が力が入っていたように感じられました。市立病院自体は、たばこ産業のあったところに、平成27年5月からスタートしています。


 この旅の最後の夜は、その城山ホテル鹿児島のガーデンレストランで、親戚の方々との宴でしめくくられました。(スケッチ・写真・文;青山恭之)