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埼玉の建築スケッチMAP 青山恭之のブログ
コラムcolumn
僕と、埼玉会館

2018年6月

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 「美術と街巡り・浦和 2018」については、この3月のコラムで紹介しました。その中で、メインの展示会場がうらわ美術館から埼玉会館に変更になったことを書きましたが、僕にとっては、埼玉会館について振り返り、考えを深めるいい機会でもありました。その記事のなかで、「埼玉会館での催しの発案に関わることで、かねてより考えてきたことに一区切りがついた気がしています。」と述べていながら、きちんと説明をせずにすませてしまっていました。
 今月のコラムで、そのあたりを書いておこうと思います。


■ 「建築」に初めて感動した、埼玉会館
 浦和駅西口から西へ進み、中山道を渡るとほどなく、道は右に曲がりながら坂を下りていきます。その右側が、切通しのような、高い石垣だったようなぼんやりした記憶があります。埼玉会館の工事開始が1963年となっているので、その記憶は、僕の幼稚園時代ということになるでしょう。その後、小学校2年のころからピアノを始め、3年だったか4年だったかのころに、ピアノの発表会で埼玉会館(おそらく小ホール)のステージに立ちました。その時のわくわくするような印象が、僕が最初に「建築」というものと出会った経験でした。楽屋など、裏周りの迷路のような空間。そして、舞台に出た時の、客席のほうに広がる大きな広がり・・・。「建築」に、まず内部空間の体験として出会ったと、今となって振り返ることができます。その後落書き帳に、空想の建物の断面図をよく描いていたものです。もう一つ印象的だったのは、緞帳に描かれた、「野田のさぎ山」のサギの表情でした。
 中学2年の時は、学年全体でハレルヤコーラスを大ホールで歌いました。高校時代は、図書館に行く時に、エスプラナードで友人とおしゃべりをしていました。

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これは、建築とはあまり関係ないかもしれませんが、僕が成人式の時(1978年1月)に撮った写真です。

■ スクラップ&ビルドの時代から、建築を文化遺産として大切にする時代へ
 僕は、1979年から94年までの15年間、三鷹・西荻窪で過ごし、浦和を離れていました。その間に見た映画「砂の器」で埼玉会館が舞台になっていて、懐かしい思いがしたものです。浦和にもどってきて、以前と変わらずに埼玉会館はあり続けていましたし、コンサートなどで、訪れることもしばしばありました(1998年1月29日の小澤征爾指揮の第九演奏会は、大変感動しました)。ちょうど浦和を離れていた時期というのが、建築の勉強をしていた時期に当たっていて、前川國男という存在を意識するようになっていました。建築家鈴木喜一氏主催の「近代建築への旅・スケッチ展」に初めて出品したのは、前川の大宮の博物館のスケッチでした。その展覧会には、地元の建築を描こうと決め、だんだんと埼玉県の建築のスケッチが増えていきました。
 建築を勉強するにつれて埼玉会館への愛着は深まっていきましたが、地元にとっては、なんとなく重々しいだけの存在になっていたような気がします。浦和駅前は新しく再開発が進みましたし、南浦和の文化センターのようにより収容力の大きなホールも生まれてきていました。ホールは、音響効果がいいと評判ではありましたが、建築そのものの評価というのは、一般にはほとんどなかった気がします。埼玉会館で「埼玉の前川國男建築展」なんて企画てきないものだろうかと、夢のように考えてはいました。
 そんな時代の風向きが変わったのが、2006年に東京ステーションギャラリーで開かれた「生誕100年・前川國男建築展」でした。文化遺産としての建築の役割が、古建築だけでなく近現代の建築においても認められるようになり、前川の建築が専門家以外にも興味の対象になり始めたのです。
 そのころ、一人の編集者に僕のスケッチのことが伝わって、ある業界の月刊紙に、建築のスケッチと文章のセットを、一年間12回、連載することになりました(2008~9年)。紙面はモノクロでしたが、「建築・街にあり」というタイトルで、日本全国の興味ある建築(海外も一例)を、街との関わりで語りました。その最終回に選んだのが、埼玉会館でした。
 すると今度は埼玉新聞から声がかかり、「埼玉の建築スケッチ」という週刊の連載を、途中に休みもはさみながら、2012年から2年にわたり87回掲載しました。そこでも埼玉会館を取り上げたところ(掲載は2013年10月17日)、埼玉会館の館長さんから電話がかかってきて、一度お目にかかりたいと。

■ 前川建築としての埼玉会館を見直す動き
 それまで、埼玉会館に館長さんという立場の人がいるとは意識したことはありませんでした。それが、新聞掲載から一か月と少し経った12月2日に事務所に来ていただいた飯岡さんという女性の館長は、埼玉会館を「前川建築」を前面に出してPRしていきたいというのです。館長さんとは、埼玉会館について、前川という建築家について、多くの事を語り合いました。そのころ、東京都美術館が「前川建築」を売り込み始めていました。西洋美術館が「コルビュジエ建築」として世界遺産へと動き始めていた時期です。都美は、前身建物は岡田信一郎設計で、のちに前川の設計で建て替えられたという、埼玉会館と同じ二人のリレーという共通点をもっているのです。新しい館長さんとしては、都美に負けてはいられないと考えていたのでしょう。東京ステーションギャラリーでの展覧会で東海大学によって制作された埼玉会館の模型は、ぜひ埼玉会館においておくべきだともお話しました。

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 その時バックで流していたのが、上の写真のLPレコード、ウィーン室内合奏団によるモーツアルトです。我が家のレコード棚にあったこのジャケットで、背景に写っている照明器具を、どこかで見たことがあるなと思っていたら、埼玉会館の大ホールで録音されたものだったのです(先ほどの、成人式の時の写真に写っています)。館長さんも、これはご存知なかったようでした。

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 その後、埼玉会館は「前川建築」PRの手をいくつも繰り出しました。それは、竣工から50年を迎え、2015年10月からの大規模改修に入る前に、存在意義をアピールしたいという思惑があったのではないかとも思います。それでも、我々にとっては、埼玉会館をよりよく知るための大切な時期となりました。2014年1月20日の「施設見学会」では、大ホールの奈落の使われなくなった周り舞台、さらに、上のスケッチにある、大ホールの自然な響きとやわらかな印象を形成している、壁面から天井の波打つ木の仕上げが、大工さんの手仕事によって作られている様を、裏から見ることもできました。同年2月28日から3月27にかけて行われた「埼玉会館の歴史と建築展」では、旧埼玉会館オープニング当日の貴重な映像も公開され、渋沢栄一氏が笑顔で登場し、街はまるでお祭り騒ぎで、ひとつの建築が、地域の未来を切り開くべく熱い思いで迎えられたことが実感できました。


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 また、僕にとって忘れられないのが、同年9月15日の「埼玉会館の建築」という催しでした。そのポスターに僕のスケッチを使っていただいたのです。当日は、前川事務所社長の橋本氏によるセミナー、同氏の案内で建物の外観を見学するなど、埼玉会館そのものが主役に躍り出た感じがしました。

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 その日の交流会様子です。挨拶をされているのが橋本社長さん、その右の女性が、飯岡館長です。テーブルの上には、前川建築を描いた僕のスケッチ、前川自邸のインテリア・埼玉会館・大宮の博物館です。地元以外からも前川ファンが集まって、貴重な時間を過ごすことができました。

■ 改修工事を終えて、県立図書館との関係
 埼玉会館は、18か月という長い改修工事を終えて、2017年の4月1日から一般の利用がスタートしました。この工事期間に前後するように、隣の埼玉県立図書館が、閉館、そして解体工事と進み、すっきり蘇った埼玉会館の隣に、ぽっかり大きな空地が出来てしまったのです。これは、ただひとつの建築が無くなったということにとどまりません。県の中央図書館としての役割について、さらには図書という存在そのものを取り巻く文化の変質まで、問題は簡単ではないのですが、ここでは埼玉会館の建築にとって、大きな変化に直面することになったということを確認しておきたいのです。
 それは、前川の「エスプラナード」構想には、大ホール・小ホール・高層棟・そして県立図書館という、大小四つのボリュームによって柔らかに囲まれ、都市に開かれていながら地上の喧騒から1フロア分くらい上がった静かな人間専用の広場というイメージが基本にあったと考えられ、その広場を巡る人々の動線のひとつは、県立図書館へアプローチする中間レベルとしてこの広場を経由するものとして計画されていました。その図書館が無くなったために、この広場に人々が昇って来る必要のひとつが消滅してしまったのです。逆に図書館の利用者側から考えると、図書館での作業の合間に、ちょっと息抜きがしたいとき、地上レベルまで降りなくても、ここでゆっくりできました。
 埼玉会館の設計を見ていると、このエスプラナードの高さの設定が絶妙であることに気づくでしょう。県立図書館へのアプローチ階段とすり合わせることが、高さ設定のスタートだったかもしれません。そこで設定したレベルに大ホール2階のホワイエを合わせ、その下に1階のホワイエを潜り込ませ、小ホールは屋根のみが頭をもたげるように、さらに高層棟の足元、ラウンジからの動線もこのレベルにアクセスしてくる。坂になって降りていく県庁通りからの動線が、無理なく、かつ、ある高揚感をもって登ってくるようなレベルの設定・断面計画。非常に豊かで有機的です。現代であれば、管理の区分を明確にして、無駄な動線は避け、なるべくフラットに、段差はエレベーターで解消するように設計せよと言われてしまいそうです。前川門下の土屋巌氏の設計した「市民会館うらわ」にもエスプラナードという空間は用意されているのですが、レベルの設定が高すぎるのと、地上からのアプローチ動線が細長い一本の階段しか用意できず、室内からの扉も常に閉まっていて、単なる屋上になってしまっているのがとても残念です。下は、市民会館うらわのエスプラナードへの開かずの扉。

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■ エスプラナードの活用、現在
 隣人を失った埼玉会館を空地側から描いたのが、冒頭のスケッチです。コルビュジエゆずりの見事なエレベーションとポジティブに見ることもできるでしょうが、今度はここにどんな建築が建ち、埼玉会館とどのようにつながってくれるのか、不安のほうが勝ってしまいます。
 今年は、そんなエスプラナードの復権に向けた試みに関わることができました。「美術と街めぐり・浦和」で、彫刻家の田中千寿子氏から、街中展の会場を、もっと個性的な場所でできないかと相談があり、まず当たってみたのが調神社。ところが、前例がないと断られてしまいました。それで、今回、メイン会場が埼玉会館になるのなら、エスプラナードが使えないかという話に。隣接していた県立図書館が無くなってしまい、エスプラナードを利用する人が減っているので、有効活用にアートを置くのはどうかという僕からの助言をたずさえて、田中さんと全体のまとめ役の松永さんが現在の山海館長にアタックしたところ、話がとんとん拍子に進み、エスプラナード展と関連イベントを館の事業として開催の方向になったのです。(その様子は、今年3月のここのコラムをご覧ください)

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 この時展覧会での「オープニング・トーク」で企画されたシンポジウムに、渡邉研司東海大学教授が来ていただいたことがきっかけとなり、東海大学にあった埼玉会館の模型が、入口近くに常設展示されることになりました。ベニアとバルサをうまく使い分けた、誠実な模型です。

 

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 山海館長も、「前川建築」を押し出した企画を続けていらっしゃいます。上の写真は、今年の5月6日に行われた前川事務所の橋本社長による講演会で、前川の「人間」に焦点をあてたものでした。会場は地下の展示室で、普通は美術作品の展示に使われる空間をこのような催しに使うというのはおもしろい。いわゆる会議室より、前川の空間にいる実感があります。

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 会場に、橋本さんがサプライズで持ってきてくれたのが、「前川國男=コスモスと方法」という本です。高価な本だったものを、廉価で分けていただくことができました。この本の中の埼玉会館のページに、前から気になっているスケッチがあります。大ホール内部、襞々の壁から天井が描かれているのですが、「青山之彼方 青山のあ(?)なた」と二行。これは何を意味するのでしょう。あの内部空間から青山の彼方を思う? それとも全く別の走り書きか。ただ、僕の名前の四文字のうち三文字までが使われていて、目が留まったというだけの話ではあります。

 幼い僕に建築としての感動を与え、建築の道を志すのに着火剤のように働き、浦和という街のアンカーのように空間を引き締め続けている存在がこんなに近くにあってしあわせだということ、さらに、この素晴らしい建築のことをより多くの人に知ってもらいたいと思っていたことが、少しずつ実現されつつあることを、長々と書いてしまいました。(スケッチ・写真・文;青山恭之)