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埼玉の建築スケッチMAP 青山恭之のブログ
コラムcolumn
愛知その2、足助・有松

2018年5月

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 春の愛知への旅、後半を報告します。中盤では、親戚との時間を、大府を拠点に過ごしました。そのなかで常滑まで足を伸ばしましたが、こちらは二度目だったので特にここではとりあげません(一度目は2005年8月。このコラムに、愛・地球博の時に知多半島の友人の家を起点に旅をした報告があります。)。親戚とお別れした後、三河の山間の足助を訪ね、刈谷で一泊して、最終日に有松を見て回りました。足助も有松も、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。愛知県では現在この2地区だけです。上のスケッチは、有松を離れる直前に描いたものです。

 

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 まず、足助へ。バスでのアクセスは豊田市からと西岡崎からの二系統あるのですが、距離的にはやや近い豊田からのほうが便が少なく、今回の忙しい旅では日帰りが組めず、岡崎方面からを選びました。宿泊していた大府から電車で刈谷→知立→東岡崎とたどり、東岡崎駅前からバスで一時間強の道のりです。途中、バスの車窓に、「松平氏発祥の地・松平郷、高月院」の道標が目に入りました。司馬遼太郎作「街道を行く」の最終巻となった「濃尾三州記」の最後で、この松平郷が語られています。足助への旅程を検討しているときには、不覚にも全く頭に浮上してきませんでした。ここで途中下車するのはどう考えても無理で、「ああ、このあたりなんだなあ・・・」と見送るだけに。バスは山間部へと進み、広葉樹の多い明るい緑のなか、定時で足助に着きました。


 足助は、三河から信州へぬける伊那街道(中馬街道)の要所として栄えました。重要な交易物だった塩は、ここでブレンド「足助直し」されて、信州まで。塩の道の最後が塩尻だったという話には納得です。商業の街だけに、ざっくばらんで自由な雰囲気が、平入・妻入りの混在した今の町並みにも伝わってきています。

 

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 集落のかたちは、当然ながら地形との密接な関係のなかで成立します。ここは、谷間にわずかにひらけた段丘上、川の蛇行に沿うようにカーブを描く道の両側に、商家がひしめいています。その川と道との高低差が、階高でいうと二層分ほどあるため、家の裏手に、様々な表情が見られるのが上の写真です。これは、集落の中央よりやや上流にかかる真弓橋から、下流側(西)を写したものです。それぞれの家が、川側(南側)に、環境とのあいだを調整する構造を展開している様です。

 

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 この写真は、真弓橋より上流で、旧道が川沿いに降りて進むところです。旧家は、こちら(川側)を表として構えています。この道を、塩などの荷物を馬などに載せて運んでいたのでしょう。川沿いの道レベルで接道し、蔵が配置されています。

 

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 川沿いの道をさらに上流の方に進んだ写真。かつて人馬の時代にはメインルートでしたが、車の時代になるとここを通れないので、道路は上のレベルがメインとなり、こちらの川側に石垣を積んで上のレベルの平面を増やすように変化していった様子がよくわかります。

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 これが同じ場所の、上のレベルの道路側の写真です。メインの道といっても、これは集落内の主要道で、川を隔てた対岸(南)の上にバス通りが形成されていて、さらに逆の北側の山をくりぬいて新しいバイパス道路ができています。名古屋経済圏と長野をつなぐインフラとしての道筋の価値は変わっていないのです。

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 このスケッチは、「マンリン小路」と呼ばれる、東西の街道から北に入る路地です。白い漆喰と黒い下見板の建築が、登り勾配でかつ緩く曲がった道沿いに高密度で展開して、街の観光パンフレットなどでは外せないスポットです。

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 地形に沿った道の変化が、景観にやさしさと動きを与えています。ちょうどツバメの巣作りの時期で、多くの親鳥たちが、人間が造った有機的な空間に沿いながらけんめいに生きている姿が、この街に似合っていました。ひとつ残念だったのは、重文の鈴木家が修理中だったこと。チャンスがあれば、この商家だけでも見に来る価値がありそうです。その時には、松平郷にも・・・。結局まともに昼も食べずに歩き回り、予定していたバスで往路を引き返して、刈谷で電車を降り、駅に直結したホテルで荷を解きました。

 

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 刈谷は、JRと名古屋鉄道がクロスする交通の要衝で、ものつくりの街らしく多くの企業が立地しているようで、駅直のビジネスホテルの朝は、企業戦士たちの熱気に包まれていました。駅前には大型のショッピングセンター。それが駅の改札レベルからペデストリアン・デッキで繋がっています。ホテルのフロントもそこに面していて、駅まで含めて新しく開発された実用的な街という感じでした。駅前に、ごみごみした商店街がないのは、スマートなのか、寂しいのか。そんな刈谷から、知立で東海道線に乗り換えて有松下車。僕がまだ建築の勉強を始めて間もないころに購入した「歴史の町並み」という本のなかで知り、一度は訪ねてみたいと思い続けていたところに、やっと降り立ちました。上の写真は、服部家住宅です。
 
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 有松。東海道五十三次でいうところの池鯉鮒(ちりふ、今の知立)宿と鳴海宿の間に、尾州藩がつくった街で、宿場ではありません。宿泊以外の産業をということで、「絞り」を考え出し、それが大きな富を生んで質の高い建築群を生み、名古屋近郊がおしなべてベッドタウン化してく開発の波から町全体を守り抜いて今日に至っているのです。いわゆる宿場であれば、街道に面して狭い間口で町屋が連続していくのですが、ここは、往来する旅人に商品を売る関係で間口が広く必要だったのと、商いが成功して豪商として庭や付属建物を敷地内に建てていく過程で、主屋や蔵以外にも門や塀などが街道に面して長々と続くような、独特の景観が生まれてきました。この写真も服部家で、間口45メートルは有松でも最大です。


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 これは、竹田家住宅です。パンフレットには、「江戸末期の様式を継承した主屋、14代将軍徳川家茂が訪れたとされる茶室「栽松庵」、明治から大正にかけて整備された土蔵群や洋間、書院座敷、門、塀等が現存し、有力な絞商の屋敷構えの典型例をみることができる」とあります。

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 町並みの西端を見ている写真です。その先には高速道路が空中を横断していて、たかが100年そこそこで、もののつくりかたが圧倒的に変わってしまったことが実感できます。中央、工事車両が止まっているのが岡家で、主屋の間口は有松最大とのこと。ここは工事中が幸いして、中をチラリと覗くことができました。


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 表の街道に面して、格子が一部痩せ細っていて、時間の厚みを感じさせます。はるか先に庭の明るさが見えていますが、間口だけでなく奥行きのなんと長いことでしょう。二階に上がる階段も見えています。

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 岡家の二軒先の、小塚家です。寛文年間(1661~1673)に有松に居をかまえたという旧家です。主屋の両妻壁を大屋根より上に突出させてその上に卯建(うだつ)を掲げるのは、最初に紹介した服部家とここだけの特別な意匠のように見えました。
 とにかく有松は、それぞれの建築の質が高く、かつ今も人々の生活が営まれているという稀有な例だと感じました。一軒くらい博物館的に公開してもらえるといいとも思いましたが、そんな観光地化に流されない、歴史の重みが充満しているのです。

 

 歴史といえば、かつて歴史の授業で習って、その地名が不思議な印象を形成した「桶狭間」が、有松のすぐ南です。先ほどとりあげた、司馬遼太郎の「濃尾三州記」は、「桶狭間」の話から始まっています。司馬さんは有松のことは書いていないのですが、司馬さんとは別行程で参加した安野光雅の、有松の町並み(服部家の正面)のスケッチがこの本に載っています。ここまで来たのだからと、タクシーで行ってみました。古戦場跡は公園になっていて、夕方の時間帯で、こどもたちが普通に遊んでいました。ただ、信長軍が駆け下りたという丘が大学の構内に残っており、それこそ近世を切り開いたという歴史の瞬間を、少しだけイメージできたのは収穫でした。


 今回の旅の後半では、足助と有松という二か所の重伝建地区を訪ねたのですが、結果的にこの司馬さんの本とかぶる部分が多くありました。普段、名古屋=愛知県とひとくくりにしてきてしまいましたが、家康と信長のキャラクターから、三河と尾張の違いを初めて意識するようになりました。それにしても、名古屋の人は、固有名詞を短縮しすぎませんか?名古屋城を名城と縮めてしまうとか・・・。(スケッチ・写真・文;青山恭之)